ビリヤード雑誌「ピカソ」 その1

B!

こんにちは、スタッフ野田です。
先日、古いビリヤード雑誌についてこのブログでご紹介しましたが、そのうちのひとつ「ピカソ」という雑誌を作った村田氏と会い、長年の謎だったこの雑誌の生い立ちと終焉(?)についてお話を聞くことができました。
「ピカソ」が第8号まで発行されたところで後継の「ポケットハウス」になり、ポケットハウスを第8号まで出版したところで村田氏はこれをNPBA(日本ポケットビリヤード協会)に移管したそうです。
このNPBAという組織は今は存在しないようですが、消滅したのか他の組織に変わっていったのか、よくわかりません。どうなったのでしょう?
それはともかく、その後NPBAから発行された「ポケットハウス」は2巻だけでした。
したがってポケットハウスは全部で10巻ということになります。
1986年の年末に映画「ハスラー2」が日本で公開され、未曾有のビリヤードブームが起こったことは周知のとおりですが、その年の1月にまだ学生(東大!)だった村田氏はこの本を創刊しました。私はてっきりハスラー2のブームに乗って作ったと思っていたのですが、映画公開の1年近く前に作られていたんですね。まさに先見の明があったというところでしょう。
村田氏の許可をいただいて、ピカソおよびポケットハウス全巻・全頁をこのブログで公開することになりました。
30年前のビリヤードブームまっただ中で当時の人々がいかに熱中していたかを垣間見ることができる貴重な資料だと思います。
それではスタッフ野田の独断と偏見の解説を交えながら、創刊号からご紹介していきましょう。
表紙は記事のトップに表示していますので、第2・3ページの紹介からです。

 

 

 

映画「ハスラー」の一場面と奥村健プロが対照的に掲載されています。
「ハスラー2」ではなく白黒の「ハスラー」であるところが時代を感じさせます。
前述のとおり、「ハスラー2」が日本で公開されるのはこの雑誌が創刊された年の年末です。

4・5ページ

 

 

ピカソ・ポケット・ガールと称してビリヤード場に来た女の子を集めています。
まだブームが来る前だったはずですが、いっぱい女の子がいたんですねえ。

6・7ページ

 

「スコッチハウス25」というカフェバーと、個人宅に設置されている
ビリヤード台の紹介です。

アダム社の広告はなかなかシブいですね。

Mezzキューの広告がない?

それもそのはず、この頃はまだMezzキューは存在していません。

 

8・9ページ

1985年の全日本選手権の記事です。
当時は14-1、ナインボール、ローテーションの3種目で行なわれていました。
会場は千里丘陵にあるセルシーという商業施設で、スタッフ野田も行ったことがあります。
14-1で優勝の長矢プロ、さすがです。スタッフ野田は何度か14-1で長矢プロの手ほどきを受けましたが、配置を読む能力がずば抜けていると感じます。
戸田プロが「関西の新鋭」と紹介されているところも時代を感じますね。

10・11ページ

このページは大学のビリヤードサークルの紹介です。
学園祭のためにビリヤード台を借りてきて、しかも奥村プロを呼んでエキジビション!
これほどの情熱をビリヤードに持った学生がいたんですね。

12・13ページ

このページはピカソのバラエティ・コーナーでしょうか。
小話やテクニカルアドバイスなどがごちゃまぜになっています。

14・15ページ

当時関東にあったビリヤード場の広告が出ています。
時代の流れで多くのお店がなくなってしまいましたが、現在もまだ元気に営業を続けているお店もありますね。

裏表紙です。

右上に発行年月が1986年1月であることを示す表記があります。
繰り返しますが、このときまだ「ハスラー2」はアメリカでさえ公開されていないのですが、ポケットビリヤードのブームがきている旨の記載が記事の中にあることから、気運が盛り上がってきたところに映画で火が付いたのがあの大ブームだったようです。

 

14ページに制作スタッフの紹介がありますが、チーフエディターの村田氏の他にアマチュアの重鎮や、後にプロプレーヤーとして活躍する人達の名前が並んでいます。すごいメンバーですね。
インターネットもなく、1988年にビリヤードマガジンが創刊されるまで一般に流通するビリヤードの定期刊行雑誌もなかったこのころ、スタッフ野田はこの冊子を大変楽しみにしていました。また、貴重な情報源でもありました。
遅まきながら制作にかかわった方々にお礼を申し上げます。

 

近日中に第2号をご紹介します。

 

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