こんにちは、スタッフ野田です。
「ポケットハウス」第3号のご紹介です。
ページ数が非常に多くなっているので、前後編に分けてお送りします。
表紙にはマイク・シーゲルとニック・バーナー登場しています。
当時この二人はおそらく日本で最も名の知られた海外のビリヤード・プレーヤーだったと思います。
特に「帝王」シーゲルは賞金王としてビリヤード界に君臨していました。
ちなみに二人ともBCA(アメリカビリヤード協会)の殿堂入りを果たしています。
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ロサンゼルスクラブ(新関建設)の広告です。
前号とほぼ同じ内容ですが、店舗数がさらに増えています。
「POOL BAR」というのは新関建設の登録商標だったようですが、当時新規出店した多くのお店がこう呼ばれていました。
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目次です。
前にも書きましたが、目次に貴重なカラーページを使うのはいかがなものかと思います。
4~5ページ
初来日したマイク・シーゲルとニック・バーナーの紹介です。
テレビにも登場し、一躍時の人となりました。
なお、シーゲルのニックネームが「キャプテン・ホーク」となっており、テレビに登場した際も解説者がそのように紹介していたのを記憶していますが、正しくは「キャプテン・フック」です。「Captain Hook」が「Captain Hawk」として間違って伝わったようです。このニックネームはピーターパンに出てくるフック船長が由来のようです。
なお、マイクもニックもジョス・キューを使用していたため、当時は高級キューの代名詞としてジョスがもてはやされました。この写真でマイクが使用しているキューは70万円くらいしたと記憶しています。
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日勝亭スーパーローレルテーブルの広告です。
スタッフ野田もこのテーブルにずいぶんお世話になりました。
淡路亭のスーパーガリオンと日勝亭のスーパーローレルで国産テーブルのシェアを二分していた感がありました。
7~11ページ
1987年度の全日本選手権の結果報告のページです。
昨年、14-1の決勝戦で驚愕の100点取り切りを見せたアレン・ホプキンスが3種目すべてで決勝進出し、そのうち2種目で優勝しています。本場アメリカとの実力差を見せつけられた形になりました。ホプキンス恐るべし・・・
ローテーションはBCA(アメリカビリヤード協会)のルールブックにも掲載されているのですが、アメリカでは殆どプレーされることはなく、しかも日本のものとはちょっとルールに違いがあるため、往年の名プレーヤーであるスティーブ・ミゼラクがそれでモメたことが書かれています。
9ボールでホプキンスの優勝を阻んだ小杉プロはさすがです。
12~14ページ
ポケットと同時に開催された第44回全日本スリークッションの結果報告です。
自由が丘で「ビリヤード・ニュー文化」を経営されている甲斐プロが初優勝して
います。これはうれしかったことでしょう。
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広告のページです。
16~17ページ
小杉プロの記事です。
現在はインドネシア国籍を取得して現地の人と結婚して生活されていますが、ビリヤードは続けており、現地ではビリヤード界の神様のような扱いを受けているとか。
18~20ページ
シーゲルとバーナーを迎えて、日本のプロと対決するトーナメントが組まれました。
この様子はテレビでも紹介され、当時過熱していたビリヤードブームに油を注ぐ
ものでした。
3000円の入場料にも関わらず会場のロサンゼルスクラブはほぼ満席だったようです。
全14戦のうち日本側は4勝を挙げていますが、これは惨敗とまでは言いませんが、日本のプロたちは悔しいと思ったことでしょう。
興味深いのはこのトーナメントでTPAが計算されていることです。
TPA(Total Performance Average)は要するにショットの成功率を表す数字で、セーフティなどを除く的球を入れにいったショットのうちどれだけ成功したかを示します。シュート成功率と言ってよいでしょう。これを見ると確かに日本側は多少劣るかもしれませんが、惨敗するほどの差はないと言えます。つまり勝敗の差はシュート力ではなく、それ以外のゲームの組み立てやセーフティなどの相手との駆け引きなどによるものだといえそうです。
さて、現在の日本のプロたちはどうでしょうか?
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広告のページです。
自由が丘にあったアルファ・インターナショナル社の広告ですが、代表のチャーリー高橋氏は当時ビリヤードにかなり力を入れており、マイク・シーゲル、ニック・バーナーの二人と契約して、海外輸入キュー販売会社の中でも最も活発に活動していた感がありました。
22~23ページ
内閣総理大臣杯の記事です。
当時は京都のKBSホールで行なわれていました。
A級の優勝は後に「ピンクヒノッキー」として名をはせるプロとなる、桧山春義氏(故人)でした。桧山氏はプロテストのボウラードゲームで890点(3ゲームの合計得点。第1ゲームは最初のブレイクでスクラッチした後、すべてノーミスの290点で、第2・第3ゲームはパーフェクト)を叩き出し、当時のスタッフ野田の憧れの一人となりました。
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広告のページです。
ビリヤードテーブルが22台と28台のお店です。当時はこのような多くの台数を持つビリヤード場が次々にオープンしていました。
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関西ジュニア選手権の記事です。
参加者が647名とはすごいですね。当時の熱狂ぶりが伺えます。
26~27ページ
当時は各地でオープン・トーナメントも盛んに行なわれました。
滋賀と静岡のトーナメントが紹介されています。
静岡の会場となったオールドクラブハウスはスタッフ野田も行ったことがあります。東海クラブマスターズ・トーナメントだったと思いますが、ビリヤード場とは思えないようなすばらしい店の造りに驚いた記憶があります。
このトーナメントでは現在横浜でサイドナインを経営されている崎村プロがプロ初優勝をしています。
28~29ページ
往年の名プレーヤーを探る記事です。
鈴木亀吉といえばスタッフ野田も名前ぐらいは知っていますが、その人物像はさっぱりわかりません。その鈴亀さんを知る肥土軍作氏へのインタビューです。
あまり詳しいことは分からないようですが、ビリヤードの黎明期にどのように活躍されていたのか興味のあるところです。
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アメリカン・プールプレーヤーのページです。
このショートストーリーを書いた園部さんという人の文才には感心します。
漫画化したら面白そう。
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広告のページです。
蒲田にあったシカゴクラブはもともとゲームセンターでしたが、ブームに乗っかって2・3階をビリヤード場にしたものです。当時、蒲田の近くに住んでいたスタッフ野田もよく通いました。
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突然出てきたプロ紹介のコーナーです。
スタッフ野田にとって思い出深い人も何人かいらっしゃいます。
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広告のページです。
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これも突然出てきた映画の紹介コーナー。
ビリヤードが出てくるドラマや映画ならいいけれど、何の関係もないものだったらページの無駄遣いだろうと当時のスタッフ野田は思っていました。
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広告のページです。
「日本プロポケットビリヤード共同企画センター プロフェッショナルJAPAN」・・・スタッフ野田には全く記憶にありませんが、JPBAとどんな関係があったのでしょう。
近日中に後編をご紹介します。
ビリヤード雑誌ではありませんが、久々にビリヤード漫画の単行本が出版されました。雑誌「CUE’S」で「球たまジャンキーズ」を連載していた岡Qさんの作品「ミドリノバショ」です。
ビリヤードに目の肥えた方にも納得の本格的な内容で、スタッフ野田オススメです。ぜひともご一読あれ。